「一戸建てを建てよう」、そう決めた私たちが最初にしたことは、新聞広告を丹念に見ること。
今ならネットのクリックひとつで、情報はポンと出てくるのでしょうけれど、1980年代の後半、残念ながらまだインターネットはありませんでした。
決めていたのは、
『候補地は今の住まいのある北摂か夫の会社のある三島地域』
『ローンは月9万円程度』
『ボーナス払いは最低限に』
『長女が小学校に上がる前には、そこに住んでいること』
毎週末新聞に掲載される宅地の広告を見て、良さそうな物件があれば、まず車を飛ばして一家でその場所を見に行きました。
当時、北摂の宅地造成は、能勢の山奥が主でしたので、そこは通勤に不便なため除外。三島地域は高槻や茨木の山側、名神高速の北側の宅地開発が盛んでしたので、もっぱらその辺りに行っては、夫の会社への通勤経路を確認したり、売り出し担当の不動産屋の話を聞いたりしました。
良さそうなら申し込むのですが、たいていの場所は申込者が多く抽選分譲が当たり前。そして、くじ運の悪い私たち夫婦は、まったくもってかすりもしません。
広告を見つける、現地を見に行く、業者の話を聞く、申し込む、はずれる・・・このサイクルの繰り返し。いい加減いやになってきた頃に、やっと高槻市の土地が手に入りました。契約して建築です。
注文住宅とはいえ、何しろ初めてのこと。
慣れている分譲業者にほぼお任せ状態です、ある程度のパターンを用意してくれていましたので、それに色々注文をつける形で図面をひいてもらい、予算を組み、内装や空調設備、外構など、塵も積もれば山となるとはまさにこのこと。
意外な所に、お金がかかることに驚きつつ調整し、何とか予算内に収め契約を交わして、さあ工事に入るぞとなったある日。TVのニュースが伝えています。「高槻市の浄水場で土砂崩れ」
何と、購入した土地の真上ではありませんか。道1本しか離れていません。こんな危ない所は住めない、とすぐに解約。工事開始前でしたし、理由が理由だけに、確か印紙代だけの負担で済んだと記憶しています。
もっとも、あれから30年近くたちますが、その土地では何事もなく皆さん暮らしていらっしゃるようですので、私たちが怖がりだっただけのかもしれません。快く解約に応じてくださった業者には感謝です。
こうして家づくりは、結局、また振り出しに戻ってしまったのです。
今思えば、最初から同居への道ができていたのですね。